三十二歳の誕生日を過ぎた頃から、僕の心は静かに、しかし確実に蝕まれていた。原因は、シャワーを浴びるたびに排水溝に溜まる、おびただしい量の抜け毛。そして、鏡を見るたびに後退していくように感じる生え際だった。友人たちとの会話の中で、ふと頭皮に視線を感じるたびに、心臓が冷たくなるような感覚に襲われた。最初は、ドラッグストアで一番高価な育毛剤を買ってきて、毎日欠かさず頭皮に振りかけた。しかし、数ヶ月経っても状況は一向に好転しない。むしろ、焦りと不安は募るばかり。そんな時、インターネットで見つけたのが「AGAクリニック」の存在だった。薬で薄毛が治療できる時代だという。しかし、僕の心には大きな壁があった。「薬」という言葉の響きが、何やら得体の知れない副作用や、一度始めたらやめられないのではないかという恐怖を連想させたのだ。何日も、何週間も、クリニックのウェブサイトを開いては閉じる、という行為を繰り返した。そんな僕の背中を押したのは、妻の「悩んでるだけじゃ、何も変わらないんじゃない?」という、何気ない一言だった。その言葉に、僕はハッとした。そうだ、僕はただ怖がって、何もしない自分を正当化していただけなのだ、と。翌日、僕は震える指でオンライン診療の予約を入れた。画面越しに話す医師は、僕の不安を一つ一つ丁寧に解きほぐしてくれた。薬の効果、副作用の可能性、そして治療にかかる費用。全てを理解した上で、僕は治療を開始することを決意した。数日後、自宅に届いた小さな箱。中には、フィナステリドと書かれた錠剤が入っていた。その一錠を、水で飲み干す。ほんの数秒の出来事だったが、僕にとっては人生の大きな一歩だった。もちろん、薬を飲んだからといって、すぐに髪が生えてくるわけではない。でも、僕の心には、長いトンネルの先にかすかな光が見えたような、不思議な安堵感が広がっていた。これは、僕が自分のコンプレックスから逃げるのをやめ、正面から向き合うと決めた、記念すべき日の記録だ。
僕が薄毛の薬を飲み始めた日のこと